いぬい はるか ― 過去の記憶を灯す、静かな探求者

「キャンバスは、私にとって過去の自分を映し出す鏡のようなものです。言葉にできない、複雑な感情や記憶を、色と形で溶かしていく場所なんです。」
幼少期・学生時代や原点
いぬい はるかさんの物語は、幼い頃から絵筆を握りしめていた少女の姿から始まる。特別に絵画教室に通っていたわけではないが、彼女にとって、絵を描くことは呼吸をするように自然な行為だった。彼女の感性は、日常の風景や心の中に浮かぶイメージを、紙の上に表現することに喜びを見出していた。その才能は次第に開花し、高校、そして大学と、美術を専門に学ぶ道を選ぶ。そこで出会ったのが、油絵という表現手法だった。それは、彼女の心の奥底に眠っていた感情の起伏を、最も忠実に描き出すための「言葉」となった。油絵具がゆっくりと乾いていく特性は、彼女が心のグラデーションを丁寧に描き出すことを可能にし、焦燥や不安といった感情を、美しい色彩へと昇華させるための静かな時間を与えてくれた。
「子供の頃からずっと絵を描くのが好きでした。特に何かに憧れて、というよりは、描かないと気が済まない、そんな感じだったと思います。高校、大学と美術の道に進んだのは、ごく自然な流れでしたね。」
この言葉は、いぬいさんにとって絵画が単なる趣味や仕事ではなく、彼女自身の存在そのものと深く結びついていることを示している。それは、外部から与えられた目標ではなく、内側から湧き出る衝動に基づいている。この根源的な衝動こそが、彼女の創作活動を絶えず支える揺るぎない原点となっている。

夢や転機
幼少期から絵を描き続けてきた彼女にとって、画家になることは当然の夢であった。しかし、その道を歩む中で、彼女は一つの大きな転機を迎えることになる。それは、作品のモチーフを探求する過程で、自身の過去と向き合うという挑戦だ。当初はただ漠然と美しい風景や物を描いていたが、ある時、幼い頃の記憶や、言葉にできなかった辛い感情が、絵を描くことによって消化されていくことに気づいた。その瞬間から、彼女にとって絵を描くことは、単なる表現行為を超え、自己を癒し、受け入れるための儀式へと変わった。特に、動物をモチーフに選ぶことが多いのは、彼女自身が「動物は苦手」だと感じているからだという。苦手なものをあえて描くことで、内なる葛藤と向き合い、それを乗り越えるためのプロセスを作品に閉じ込めている。
「最初は漠然と描いていたんですけど、ある時から、絵を描くことで過去の自分を消化していることに気づいたんです。特に、昔の怖かった記憶とか、辛かった思い出をモチーフにすることが多いですね。」
この気づきは、いぬいさんの創作活動に深みを与えた。作品は、単なる視覚的な美しさだけでなく、彼女自身の内面的な成長の軌跡を物語るものとなったのだ。この「負の感情を作品に昇華させる」というプロセスこそが、彼女の作品に独特の深みと見る者の心に訴えかける力を与えている。

活動や理念
いぬいさんの活動の根底にあるのは、「絵を通じて人とつながりたい」という強い思いだ。彼女にとって、作品はただ飾られるためだけのものではない。見る人がそれぞれの感情や記憶を投影し、そこから新しい対話が生まれるきっかけとなることを願っている。彼女は、美術に特別興味がない人にも、自身の作品に触れてほしいと語る。それは、専門的な知識がなくても、絵が持つ普遍的な力で人々の心を動かすことができると信じているからだ。彼女の作品に漂う静けさや、どこか懐かしい雰囲気は、見る者の心を癒し、それぞれが自身の内面と向き合うための「余白」を提供している。
「私の作品を見て、特に美術に興味がない人とも、何かを話すきっかけが生まれたら嬉しいです。絵が、人と人をつなぐ媒介になってくれたら、これ以上嬉しいことはありません。」
いぬいさんの理念は、芸術を特別なものとして捉えるのではなく、日常生活に寄り添い、人々が心を通わせるためのツールとして位置づけている。この考え方は、彼女の作品が持つ普遍的な魅力と、多くの人々に受け入れられる理由を明確にしている。彼女の作品は、静かに、しかし確実に、人々の心に語りかけている。

技術・道具・挑戦
いぬいさんの創作における技術や道具の選択は、彼女の表現したい世界観と密接に結びついている。彼女は、スケッチから作品を始める。通勤電車の中や歩いている時間に作品のアイデアを携帯のメモに書き留め、それをクロッキー帳に鉛筆でスケッチするという。このアナログな手法は、彼女の直感的なひらめきを、形あるものへと変換する最初のステップだ。そして、油絵の具に混ぜるオイルには、マットな仕上がりになるものを選んでいる。これにより、作品は光沢を抑えた、静かで落ち着いた雰囲気をまとう。このこだわりは、彼女が表現したい「過去の記憶」や「内省的な感情」を、視覚的に具現化するための重要な挑戦だと言える。
「作品のアイデアは、電車の中とか歩いている時に突然降りてくることが多いですね。それを携帯にメモして、後でクロッキー帳に描いて、構図を固めていくんです。」
このプロセスは、いぬいさんの創作活動が、特別な空間や時間だけでなく、日常生活のあらゆる瞬間に根ざしていることを示している。アイデアをメモし、スケッチを重ねるという地道な作業が、彼女の作品の深みを支えているのだ。また、マットなオイルへのこだわりは、彼女が単なる美しさだけでなく、作品が持つ雰囲気や感情的な質感をいかに大切にしているかを物語っている。

現在の活動と信念
現在、いぬいさんは様々なモチーフを描きながら、自身の表現の可能性を広げている。これまでは、自身の内面的な感情の消化に重きを置いてきたが、今後は特定のモチーフでシリーズ作品を制作していきたいと考えている。また、海外の文化、特にインドから強いインスピレーションを受けているという。この新たな挑戦は、彼女の創作活動が、個人の内面から、より広い世界へと視点を広げていることを示唆している。彼女の信念は、絵を描くことによって過去の自分を受け入れ、前に進む力を得ることにある。
「色々なモチーフを描いてきましたが、これからは特定のモチーフを深掘りして、シリーズ化していきたいです。海外の文化、特にインドの色彩やエネルギーには強く惹かれますね。」
この言葉は、いぬいさんが自身の芸術をさらに高めようとする強い意志を物語っている。内なる探求から、より普遍的なテーマへと向かう彼女の挑戦は、今後の作品にどのような変化をもたらすのか、期待が高まる。彼女の信念は、絵画が自己成長のための手段であり、同時に世界とつながるための架け橋であるという点にある。
残すという選択。ARTRELICとの出会い
「これまで私は、“その場で感じてもらえれば十分”と思っていました。絵は、生で見て、その場の空気を感じてもらって、それで完結するものだと思っていましたから。」
いぬいさんは、これまで作品は「その場で完結する」ものだと考えていた。しかし、ARTRELICで「未来に残す」という視点に触れたことで、その考えは大きく変わった。作品そのものだけでなく、制作過程や、その時々の思考プロセスをアーカイブとして残すことが、未来の誰かにとっての貴重な財産となることを理解したのだ。彼女は今、作品が完成するまでのスケッチやメモ、さらにはその時の感情の記録も、ARTRELICを通じて未来へ継承しようとしている。これにより、彼女の作品は単なる完成品としてではなく、一人の人間が創造の旅をたどった軌跡として、より深い意味を持つようになる。
活動をもっと知るには?
まとめ:静かな余白に、心が映る
いぬいさんの作品は、派手さや強い主張よりも、静かな余白と揺らぎを大切にしている。それは、見る人が自身の内面と向き合い、それぞれの記憶を投影するための空間だ。彼女の創作活動は、過去の記憶を消化し、未来へと繋ぐ静かな営みである。そして、その軌跡はARTRELICによって「未来に残されていく記憶の層」となり、私たちに、心の奥底に眠る静かな感情に耳を傾けることの重要性を教えてくれる。彼女の作品に触れることは、自身の心の奥にある余白を見つめること、そして、その余白に何が映し出されるかを発見する旅なのだ。
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